天パ店主のごあいさつと言うか紹介

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新潟県長岡市出身

 

1980年8月14日生まれ

 

 

 

昭和53年創業『中国料理 龍圓』の二代目としてこの世に生をうけました。

 

幼少期はとにかく陽気で面白いことが大好き。

 

占いおまじないが大好きな乙女チックな一面も。

 

 

 

いつも(週5~6)友達と遊んでばかりの毎日。

 

中学・高校とその陽気さは変わらず、笑ってばかり・遊びに注ぎ込んだ学生時代。

 

小中高と幼いころから超がつくほどのTVっ子。

 

かつ、TVゲームばかり(ファミコン・ゲームボーイ・PCエンジン・スーパーファミコン・セガサターン・プレイステーション(1・2・3)していたオタクな一面も。

 

おかげで小学生で視力を落として早熟なメガネ生活スタート。

 

 

 

小学校は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。

 

得意曲はラッパのマークの正露丸。

 

中学校はソフトテニス部でペアでなぜか市内大会で3位になるという結果。

 

だがしかし、当時のペアの彼は『3位じゃ納得できない。先輩は前年に優勝したのに!』と言われ、私は彼と距離をおこうと決める。

 

高校も引き続きソフトテニス部。部員があまりに少なく、団体戦に出れない人数だったので完全に幽霊部員になる事を決意。暇なときは女子テニスのお手伝いでラリーをしていた。

 

高校の時は遊びに夢中になりすぎて勉強もせず、遊びに集中。

 

自分よりも順位が下の人間は全員中退するという事態により、学年最下位の不動の地位を確立。

 

先生にも『お前が最後の砦になれ!お前は友達も多いから中退したらみんなが悲しむ。頼むぞ。』と言われるも

 

『わかりました。自分が下からみんなを支えます。』と永遠の約束を交わす。

 

とはいえ、遊びに集中。

 

いつも親友と駅前で遊んでいたのだが、遊んでいる最中に何かの手違いで親友の左目に自分の右手人差し指が第一関節まで刺さり、親友が悶え苦しむという人生最大の不慮の事故を経験。

 

その時に指先に感じた生ぬるさと人間の弱さ・はかなさを身を持って知る。

 

親友の眼は無事に無傷で済んだ。

 

『自分がもう一歩、足を踏み込んでいたら間違いなく光を失っていただろう』

 

と彼は現在そう語る。

 

そして高校卒業後、マスコミの仕事がしたくなり、東京のマスコミの専門学校へ。

 

そこで初めての独り暮らし。

 

学生でありながら22時から8時まで『松屋』で深夜のバイトをするという体当たり的な生活を基本とする。

 

その代わりにお金は凄く持っていた。

 

多くの変な仲間と出会い、楽しい時間を過ごすが地方就職の就職難の現実にぶち当たり、人生初の挫折。

 

『挫折も俺の人生には必要なスパイスだ』という超ポジティブな思いで払いのける。

 

そして、親の会社『中国料理 龍圓』の後継者としての道を志す事に決める。(当時20歳)

 

専門学校卒業後、東京の名店でのオファーもいただいたのだが『近くに支えてくれる仲間がいないと自分は笑顔で頑張れないのですみません。』という身勝手極まりない理由で新潟市の中国料理店にて修業することに決める。

 

そしてその時、初めて『人から告白されて断るって、こういう気持ちなんだ・・』

 

と何とも切ない想いで涙を流す(実際は泣いていない)

 

新潟での修業は料理長からの執拗なイジメ(私はそう思っている)に心はボロボロだったのだが、体も普通にボロボロで、生きた屍状態に陥る。

 

朝起きて、初めてストレスによる白髪を発見。その後も白髪は増え続けた。(当時23歳)

 

ストレスが異常でおそらく、当時の新潟市内ストレス浴びてる人ランキング大会があったら間違いなく新潟市内TOP3に入る自信があった。

 

そして溜めに溜めたストレスがピークに達し、『肋間神経痛』という症状が発動。

 

息を吸うたびに心臓と背中が同時に痛むという地獄の苦しみを味わい、新潟中央病院に行き、内科で問診を書いている時に看護師のおばさま3人くらいに囲まれ『ガンは早く見つかれば治るから安心してね!頑張ってよ!!』と、先生に診てもらう前に死の宣告を看護師さんから受ける。

 

結果、ストレスからくる肋間神経痛ということが判明。看護師を恨む。

 

いま思い出せば、こういう事はあってはならない事だと思うのだが今さら訴えることもできない。

 

というか、訴えるのにはお金がかかる。そんなお金はない。

 

そして薬をもらい、飲んだ矢先に突然治るという謎の結果。

 

薬を飲んで安心したのか。。プラシーボ効果のモデルケースのような単純な男。

 

翌日からケロっとしていた当時の自分と杯を交わしたい。

 

 

 

その後、当時お付き合いをしていた彼女に診断結果が『ガンでした。今までありがとう。』と言ったら彼女がマジ泣きするという予想外な展開に『嘘は良くない。もうやめよう。』と心に誓う。

 

そして厳しい修業に耐え、地元長岡に帰郷。(当時25歳)

 

地元長岡に戻ってからは親の会社『中国料理 龍圓』で働く。

 

職人さんがたくさんいる中、持ち前の陽気さと軽いフットワークと学生時代に友達と培った柔軟な遊び心と東京でマスコミの勉強をしてパワーアップした奇想天外な発想と余程の事が無いと怒らない海のような広い心と高校の時に姉と大喧嘩してハイキックをし、姉は壁に吹っ飛び、その衝撃で壁の上に飾ってあった額縁が姉の頭に落下して直撃。

 

まるでドリフのような二段構えの展開に驚くも、

 

その後、母親から『お姉ちゃんお風呂で泣いてるよ。』と聞き、シクシク泣いている姉の声を脱衣所で聞く。

 

初めて女性の涙を目の当たりにし、その時に『もう二度と女の人に手は出さない』と決めた菩薩のような優しい心と、掃除大好き・洗濯大好き・料理は本当は食べる方が好きだが作るのも好き・優良なご近所付き合いができる人見知りしない割とハイレベルな専業主夫になれる資質を持ってして、和気あいあいと仕事をする。

 

そんな和気あいあいしながらも、早朝ジョギングをして息も切れ切れ、のどもカラカラで脱水症状ギリギリでお店に着き、急いでコップの水を飲んだら勢い良すぎて溺れるという瀕死の状況を経験。

 

それ以外にも、朝から何も食べずにお昼も食べる時間もなく忙しいまま夜になり、何も食べる時間が無いままフラフラで、厨房で餓死しそうになるという大いなる矛盾を経験。

 

三途の川を初めて見る(当時27歳)

 

ある日、一斗缶の醤油を持ち上げようとして誤って左足に落としてしまいその後、

 

『どうも左足の中指が痛い。ポコッと腫れてるけど大丈夫。寝れば治る。』

 

そうやって二カ月間、ふつうにジョギングに行ったりして何事もなく過ごすが、なかなか痛みが引かないままであることに違和感を持ち、整形外科に行く。

 

そしたら見事に骨折していた。先生には『なんですぐ来なかったの!』と聞かれたが

 

『足の中指の存在の薄さと生活に支障は無かったからです』とアホな理由で答える。

 

直後から包帯で固定での生活を始める

 

整形外科に行く前は『これから整形外科に行ってくるぜ!!』とわんぱく感たっぷりで走って向かったのだが、骨折と分かった途端に急に足を引きずって帰り、顔は苦しそうでやつれた感じでお店に戻る。

 

『近づかないで!骨折してるから!』と終始、足を引きずり、数時間前と真逆の様子に演技とバレバレ。

 

これまで大きな怪我もなく元気に過ごしてきた中で、小学生の時に足を骨折して松葉杖で登校して生活していた友達がカッコいいと憧れの眼差しで見ていたのを思い出した。

 

まさに自分が今、その舞台に立っていると舞い上がっていたのである。

 

 

 

 

 

そして8年ほど地元長岡での中国料理と向き合い、後継者としての立場も考慮してはいたものの、自分の夢を叶えた父を羨ましく思い、自分もやりたい事が次第にジョバジョバ溢れ出てきて、自分のお店を持つ夢が発動する。

 

そして、平成24年に長岡駅前エリアにて『中国酒ダイニング巴馬』として自分のお店をオープン。

 

幼少期より大好きだった漫画太郎先生へのオマージュとして店内には画太郎先生のグッズ(書籍はすべてコンプリート・平成26年8月の中野ブロードウェイ開催の漫画太郎初の個展『漫個展』の写真集もある。ババァ抱き枕(ぼったくり価格13000円)も購入済)が多数。

 

画太郎ファンの安息の地としてそこそこの支持を持つ。

 

しかし、いつまでたっても誰ひとりとして画太郎先生の漫画を読まないことに次第に悲しくなってきて家に持ち帰る。

 

 

 

 

 

そして平成27年。持ち帰り・地方発送(要は通販である)の専門部門として『餃子専門 土井』をスタート。

 

なぜ土井という名前にしたかというと、幼少期にTVで見た土井たか子(平成26年永眠されました。お疲れさまでした。ありがとうございます。ありがとうございました。)さんの姿に衝撃を受け、それから私は土井たか子さんの虜である。

 

『将来は土井という苗字の女性の家に婿入りすれば自分も土井姓になれる!娘が生まれたら名前はたか子だ』と夢に見ていたが土井さんという苗字の方に出会う事もなく、夢は散った。

 

 

 

そして土井たか子さんへの敬意を表して『餃子専門 土井』の看板を持つことに。

 

春にオープンする予定がお店との併用で時間がなかなか作れず、もう一年以上押している。

 

 

 

しかし、通販事業部なので慌てるわけでもなく、少しずつ少しずつ話は進んでいる。

 

 

 

 

 

そして、今日もまた巴馬はパッカパッカとのんびり歩いていくのであった。