店主の果てしないたわごと

 

(注)とてつもなく長文です。

読む時間がない方、運転中の方、長文の苦手な方は吐き気を起こすかもしれません。

読んだ後に『時間返せ!』『疲れた!』などと言われても責任は取れませんので

自己責任でお読みください

 

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新潟県長岡市出身

1980年8月14日生まれ

 

昭和53年創業『中国料理 龍圓』の二代目としてこの世に生をうけました。

幼少期はとにかく陽気で面白いことが大好き。

占いおまじないが大好きな乙女チックな一面も。

 

いつも(週5~6)友達と遊んでばかりの毎日。

中学・高校とその陽気さは変わらず、笑ってばかり・遊びに注ぎ込んだ学生時代。

小中高と幼いころから超がつくほどのTVっ子。

かつ、TVゲームばかり(ファミコン・ゲームボーイ・PCエンジン・スーパーファミコン・セガサターン・プレイステーション(1・2・3)していたオタクな一面も。

おかげで小学生で視力を落として早熟なメガネ生活スタート。

 メガネをかけていることで周りからは『頭良さそうですね』と言われることが非常に多かった。

勉強をして目が悪くなったと思う人が多かったようだがそれは全くの間違いだ。

私はただ単にゲームのしすぎで目が悪くなったのだ。それを知らぬ人々はみんな頭良さそうと言ってくる。

そんなわけない。飯よりゲームを愛した男である。

頭良さそうと勝手に思われたが、実際はゲームのしすぎで亜メガネをかけているという真実をいうこともできず頭が良さそうなふりをして生きることを決める。

改めて言っておく。メガネをかけている人が全員頭が良いと思ったら大間違いだ。私が良い例だ。

小学校は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。

得意曲はラッパのマークの正露丸。

中学校はソフトテニス部でペアでなぜか市内大会で3位になるという結果。

だがしかし、当時のペアの彼は『3位じゃ納得できない。先輩は前年に優勝したのに!』と言われ、私は彼と距離をおこうと決める。

準決勝で敗退し、決勝には行けず、3位決定戦になった。

そもそも3位になった試合を振り返ると

その試合は突風がすごく正直、試合中止になるレベルの悪天候だった。

ソフトテニスはゴムボールのため、ボールが風に乗って遠くに行ってしまう。思ったところに行かないのである。

もはや、サーブを入れたら勝ちくらいであった。たとえ打ち返したとしてもボールが理解不能な場所に飛んでいく始末である。

さらに突風ということもあってか砂嵐も起きていた。

頭良さそうと言われてきたゲーマー男子のメガネをもかいくぐって砂は私の目を潰しにかかってきた。

『このメガネを抜けて砂が私の目を襲うだと!』と私のメガネは防御壁にもならず、試合中に突然砂嵐の洗礼を喰らい、悶え苦しむこともあった。

『ぐわわぁぁぁl!』突然悶え苦しむ私を当時の相方はどう思ったのであろう。

『どうした!大丈夫か!』と声をかけられたのは覚えている。

だが私は目を破壊された。目を開けない。15歳の純朴なゲーマー少年の瞳に砂が入っている。

目を洗いたい。水が欲しい。飲み物で持ってきているコーラとポカリスエットがある。

だが、コーラで目を洗うのは危険だ。炭酸で余計に目が刺激で開かなくなるかもしれない。その前にコーラで目を洗うと顔全体がベッタベタになる。

そんなことをしたら今以上に砂を誘発してしまう。気づいたら顔に砂がくっついて砂人間になってしまう。

コーラはダメだ。そうなるとポカリしかない。ポカリで目を洗うのはどうなんだ。

コーラよりは安全か。ポカリのラベルには電解質だの+だの−だのと化学記号がいっぱい書いてある。

体液に近いということは目を洗っても大丈夫か!ということで15歳の純朴な砂少年は目をポカリで洗った。

ポカリも甘いので顔はベタベタになった。

だがこれでいい。コーラで失明するくらいならポカリで目の周り以外砂まみれになった方がまだいい。

ポカリの電解質を信じよう。

ポカリの電解質のおかげもあってか、砂嵐という自然の脅威に晒されながら挑んだ3位決定戦。

一度は目の光を失ったゲーマー少年はポカリの力を借りてゲーマー少年から砂少年へと変貌を遂げ、見事に試合に勝利したのである。

とは言え、ペアの相方は前年度優勝した先輩を目標としていたのでこの大会も優勝したかったようで悔しがっていた。

『人生思うように行かないことの方が多いんだよ』と私はすでにここで悟る。

高校も引き続きソフトテニス部。部員があまりに少なく、団体戦に出れない人数だったので完全に幽霊部員になる事を決意。暇なときは女子テニスのお手伝いでラリーをしていた。

高校の時は遊びに夢中になりすぎて勉強もせず、遊びに集中。

自分よりも順位が下の人間は全員中退するという事態により、学年最下位の不動の地位を確立。

先生にも『お前が最後の砦になれ!お前は友達も多いから中退したらみんなが悲しむ。頼むぞ。』と言われ、

『わかりました。自分が下からみんなを支えます。』と永遠の約束を交わす。

見事に学年最下位をキープ。メガネをかけているせいか、頭良さそうと高校時代も言われる。

何回も言わせてもらう。そんなわけない。メガネはゲームのしすぎです。

 さすがに最下位のキープ力が高すぎる私に、先生は『たまには本気で勉強してみたら?』と言われ、一度だけ本気で勉強に取り組む。

結果、中間テストでクラスで10位くらいになるというファンタスティックな結果に。

先生にも『やればできるじゃないか!』と言われるもそこで精根尽きたのか期末テストでは安定の最下位に戻る。

『やはり私の帰る場所はここだ。』と言わんばかりに笑顔で私は帰郷する。

 

やはり遊びが楽しくていつも親友と駅前で遊んでいたのだが、ある日、フードコートでオムそばを食べていた。

親友とは向かい合わせで座っており、私はオムそばを食べていた。親友は向かいに座って会話をしている。

その時、私は前方に何かを見つけた。『あ!!!!』と指を差した。

それと同刻。親友も何か言おうと姿勢を直し、『そういえばさぁ。』 ちょっと前のめりになった。

彼の目の前には何かを発見して指を差した私の指がいる。

ブズッ・!

親友の左目に自分の右手人差し指が第一関節まで刺さった。

『うおおおぉぉぉ!!!』

親友が悶え苦しんでいた。

人生最大の不慮の事故である。その時間わずか0.8秒。

その時に指先に感じた生ぬるさと僅かな水分。と人間の弱さ・はかなさを身を持って知る。

『失明した!マジで失明した!』と彼はその場で言い続けて悶え苦しんでいた。

思えばソフトテニス3位決定戦の試合での砂嵐の洗礼を浴び、目を潰された私も同じような経験をした。

親友の眼は無事に無傷で済んだ。

『自分がもう一歩、足を深く踏み込んでいたら間違いなく光を失っていただろう。』

と現在、彼はコーヒーを飲みながらそう語る。

私も当時は事件2日前に爪を切っていたので爪が鋭利ではなかったこと。伸びてもいなかったことで九死に一生を得たと思っている。

爪がほとんどなかったことで、角膜に傷をつけずに済んだ。

もはや、彼の瞳をわたしが触診で軽く撫でたくらいのイメージである。

とは言え、もしも彼が失明していたら私が今後の人生、彼の左目になろうと思っていた。

 

そして高校卒業後、マスコミの仕事に憧れていた事もあり、東京のマスコミの専門学校へ。

そこで初めての独り暮らし。

学生でありながら22時から8時まで『松屋』で深夜のバイトをするという体当たり的な生活を基本とする。

その代わりにお金は凄く持っていた。無駄にお金は持っていたためか、遊ぶ場所が新宿・渋谷となり、ホームを語っていた。

長岡出身の人間の分際で『ホームが新宿』と言っているのである。

何を言ってるのだコイツは。

東京に行って染まってしまう奴のテンプレートみたいな人間に成り下がっていた。

間違って『ホームが新宿二丁目』と言っていたらそっちの道へ行ったのかと疑われても仕方がない。

 

多くの変な仲間と出会い、楽しい時間を過ごすが地方就職の就職難の現実にぶち当たり、人生初の挫折。

『挫折も俺の人生には必要なスパイスだ』という超ポジティブな思いで払いのける。

そして、親の会社『中国料理 龍圓』の後継者としての道を志す事に決める。(当時20歳)

そもそも私は親の仕事への良いイメージは全く持っていない。

毎日帰ってくるのは22時過ぎ。

日曜日も仕事。

旅行の思い出もほとんどない。

親父との思い出はほとんどない。

なのにその道を志すというのは私の人生の汚点かもしれない。

私は飲食業がそこまで好きでないのだ。

どっちかというと嫌い寄りかもしれない。

専門学校卒業後、東京の名店でのオファーもいただいたのだが『近くに支えてくれる仲間がいないと自分は笑顔で頑張れないのですみません。』という身勝手極まりない理由で新潟市の中国料理店にて修業することに決める。

そしてその時、初めて『人から告白されて断るって、こういう気持ちなんだ・・』

と何とも切ない想いで涙を流す(実際は泣いていない)

新潟での修業はある一人のチーフからの執拗なイジメ(私はそう思っている)に心はボロボロだったのだが、体も普通にボロボロで、生きた屍状態に陥る。

朝起きて、初めてストレスによる白髪を発見。その後も白髪は増え続けた。(当時23歳)

ストレスが異常でおそらく、当時の新潟市内ストレス浴びてる人ランキング大会があったら間違いなく新潟市内TOP3に入る自信があった。朝、起きると吐き気が止まらないという謎の症状。

お店は22時閉店なのだがその後24時までチーフから毎日二時間のマンツーマン説教。ただ立って二時間の説教。

もはや毎日の恒例になっていた。よくも毎日二時間の説教をするネタがあるものだなと今となっては思う。

その驚異の説教ネタ収集率は、日本野球界の至宝イチローの最高打率をも軽く凌ぐであろう。

数多くの後輩を見てきたであろうチーフも『お前ほど仕事ができない人間は今まで見たことがない』『お前なんて辞めちまえ』と毎日言われていた。毎日言われる自分もすごい。とは言え一日を通してミスもなく過ごす日があったとしても22時から説教タイムがあるのだ。​『この人は人として私を嫌いなんだな』と段々と関係ないことまで説教されるようになる。

そして溜めに溜めたストレスがピークに達し、『心臓神経痛』という症状が発動。

息を吸うたびに心臓と背中が同時に痛むという地獄の苦しみを味わい、新潟中央病院に行き、内科で問診を書いている時に看護師のおばさま3人くらいに囲まれ『早く見つかれば治るから安心してね!頑張ってよ!!』と、先生に診てもらう前に死の宣告を看護師さんから受ける。明らかに◯ンと言われている様だ。

結果、ストレスからくる心臓神経痛ということが判明。看護師を恨む。

いま思い出せば、こういう事はあってはならない事だと思うのだが今さら訴えることもできない。

というか、訴えるのにはお金がかかる。そんなお金はない。

そして薬をもらい、飲んだ矢先に突然治るという謎の結果。

薬を飲んで安心したのか。。プラシーボ効果のモデルケースのような単純な男。

翌日からケロっとしていた当時の自分と杯を交わしたい。

 

その後、当時お付き合いをしていた彼女に診断結果が『ガンでした。今までありがとう。』と言ったら彼女がマジ泣きするという予想外な展開に『嘘は良くない。もうやめよう。』と心に誓う。

そして厳しい修業に耐え、地元長岡に帰郷。(当時25歳)

地元長岡に戻ってからは親の会社『中国料理 龍圓』で働く。

職人さんがたくさんいる中、持ち前の陽気さと軽いフットワークと学生時代に友達と培った柔軟な遊び心と東京でマスコミの勉強をしてパワーアップした奇想天外な発想と余程の事が無いと怒らない海のような広い心と高校の時に姉と大喧嘩してハイキックをし、姉は壁に吹っ飛び、その衝撃で壁の上に飾ってあった額縁が姉の頭に落下して直撃。

まるでドリフのような二段構えの展開に驚くも、

その後、母親から『お姉ちゃんお風呂で泣いてるよ。』と聞き、シクシク泣いている姉の声を脱衣所で聞く。

初めて女性の涙を目の当たりにし、その時に『もう二度と女の人に手は出さない』と決めた菩薩のような優しい心と、掃除大好き・洗濯大好き・料理は本当は食べる方が好き・優良なご近所付き合いができる人見知りしない割とハイレベルな専業主夫になれる資質を持ってして、和気あいあいと仕事をする。

そんな和気あいあいしながらも、早朝ジョギングをして息も切れ切れ、のどもカラカラで脱水症状ギリギリでお店に着き、急いでコップの水を飲んだら勢い良すぎて溺れるという瀕死の状況を経験。

それ以外にも、朝から何も食べずにお昼も食べる時間もなく忙しいまま夜になり、何も食べる時間が無いままフラフラで、厨房という食品が溢れた中でで餓死しそうになるという大いなる矛盾を経験。

この時、三途の川を初めて見る(当時27歳)

ある日、一斗缶の醤油を持ち上げようとして誤って左足に落としてしまいその後、

『どうも左足の中指が痛い。ポコッと腫れてるけど大丈夫。寝れば治る。いつもそうして治してきた。』

そうやって二カ月間、ふつうにジョギングに行ったりして何事もなく過ごすが、なかなか痛みが引かないままであることに違和感を持ち、整形外科に行く。

そしたら見事に骨折していた。

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先生には『なんですぐ来なかったの!』と聞かれたが

『足の中指の存在の薄さと生活に支障は無かったからです』とアホな理由で答える。

直後から包帯で固定での生活を始める

整形外科に行く前は『これから整形外科に行ってくるぜ!!』とわんぱく感たっぷりで走って向かったのだが、骨折と分かった途端に急に足を引きずって帰り、顔は苦しそうでやつれた感じでお店に戻る。

『近づかないで!骨折してるから!』と終始、足を引きずり、数時間前と真逆の様子に演技とバレバレ。

これまで大きな怪我もなく元気に過ごしてきた中で、小学生の時に足を骨折して松葉杖で登校して生活していた友達がカッコいいと憧れの眼差しで見ていたのを思い出した。

まさに自分が今、その舞台に立っていると舞い上がっていたのである。

 

そして8年ほど地元長岡での中国料理と向き合い、後継者としての立場も考慮してはいたものの、自分の夢を叶えた父を羨ましく思い、自分もやりたい事が次第にジョバジョバ溢れ出てきて、自分のお店を持つ夢が発動する。

そして、平成24年に長岡駅前エリアにて『中国酒ダイニング巴馬』として自分のお店をオープン。

幼少期より大好きだった漫☆画太郎先生へのオマージュとして店内には画太郎先生のグッズ(書籍はすべてコンプリート・平成26年8月の中野ブロードウェイ開催の漫☆画太郎初の個展『漫☆個展』の写真集もある。ババァ抱き枕(ぼったくり価格13000円)も購入済)

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が多数。

画太郎ファンの安息の地としてそこそこの支持を持つ。

しかし、いつまでたっても誰ひとりとして画太郎先生の漫画を読まないことに次第に悲しくなってきて家に持ち帰る。

 

 

そして平成27年。持ち帰り・地方発送(要は通販である)の専門部門として『餃子専門 土井』をスタート。

なぜ土井という名前にしたかというと、幼少期にTVで見た土井たか子(平成26年永眠されました。お疲れさまでした。ありがとうございます。ありがとうございました。)さんの姿に衝撃を受け、それから私は土井たか子さんの虜である。

『将来は土井という苗字の女性の家に婿入りすれば自分も土井姓になれる!娘が生まれたら名前はたか子だ』と夢に見ていたが土井さんという苗字の方に出会う事もなく、夢は散った。

 

そして土井たか子さんへの敬意を表して『餃子専門 土井』の看板を持つことに。

春にオープンする予定がお店との併用で時間がなかなか作れず、もう一年以上押している。

 

しかし、通販事業部なので慌てるわけでもなく、少しずつ少しずつ話は進んでいる。

 

 

そして2016年・秋。

オープンからもうじき4年になるあたりで思ったことがあった。

『巴馬は気付いたら変な店になっていた。。。。』

オープンの時は割とキチンとした感じで営業していたのだが、段々と自分の『素』が出てきてしまい、ゆる~い感じのお店になってしまった。

それはそれで良いのだ。そこを気にいってくださるお客様もいる。

しかし、その反面、自分が本当に大切にしたいものを忘れてしまったのである。

ランチ営業をしてそのまま夜の営業までノンストップで駆け抜ける毎日。

私の身体は悲鳴をあげていた。。。

上京をしていた東京学生編。22時から8時までの深夜に『松屋』でバイトをしていたこともあった。毎日やっていた。時給は22時以降は1575円。8時にバイトが終わり、9時から学校。

17時に家に帰ってきて22時から松屋!というハードワーク。

新潟修行編では24時まで説教を受け、帰ってお風呂入って就寝2時。そして6時出勤。

そんなハードワークをしてきた自分にとっては今の2時帰宅。7時起き。ノンストップ休憩なしで2時まで仕事というのも過去を繰り返す恒例のようになっていた。

​しかし年齢は重ねていたのである。

8月14日に36度目の誕生日を迎えてそれは分かった。

『疲れが全く抜けないボデーになっている!これはおかしい!』

 

このままでは日本人の平均寿命を大幅に下回る年齢で天に召されてしまう気がしてならなかった。

夜も眠れずにいつもヒィヒィ言っていた。

疲れた形相で仕事していてお客様に『マスター顔が黒いよ。アラブ人みたいだよ。』と言われたこともあった。

そこに特に否定はなかった。W杯サッカーでUAEの選手を見ると自分がいっぱいいるように見えて仕方なかった。

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頭では大丈夫と思っていても私のわがままボデーはそれを認めなかった。

『自分が本当に大切にしたいものと向き合って頑張ろうよ。もっと自分を大事にしようよ。』

私のわがままボデーはそう呟いていた。

オープン4年目目前にして、自分にとって本当に大切にしたいものを考えるとは。。

今までどれだけ脱線したのだろう。

でもその脱線は私に良いものもたくさん見せてくれたので良かったと言うしかない。

ここで原点回帰をすることで、また新しい景色を見ていきたいと思う。

この4年、泣いたり笑ったり色々と見てきたが今が自分の最新バージョンとしてこれからも精進していこうと思った。

性格は変わらないのでお店自体が凛々しくなっても私はゆるいままである。

・・・とこんなこと↑を2016年の秋に掲げていたようではあるが、気づけば2017年夏になっていた。

早い。ただただ早い。周りの時間の進み方が早い。

 長岡駅前も新しいお店がいっぱいできている。

おしゃれなお店がいっぱいできた。巴馬とは真逆だ。

木の上にお肉を並べるお店が増えた。

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おしゃれである。これが流行の最先端だ。

巴馬は木の上に麻婆豆腐を載せようかと思ったが冷静に考えて見た目がやばい。

まるで〇〇だ。いかん。

木の上に春巻を置こうか。

​・・同系色で何が載ってるかわからない。いかん。

無理はいかん。おしゃれ路線はおしゃれなお店に任せよう。

なんだかんだでランチも復活している。

毎週月・火という週二回というエコ運転である。

2016年のようなアクセル全開状態ではまたお客様に【ゾンビ】や【生きた死体】などと言われてしまう。

実際にお客様にも『ランチ復活してくれないんですか!もうカップラーメンは嫌です!』と情に訴える感じで切実に言われたら応えてあげたくなったのである。

優しすぎる男はモテない。恋愛では優しすぎても良くないのだが私は優しいのだ。

自分でも言ってしまおう。私は優しいのだ。そこがチャームポイントなのだ。

昼はランチでセコセコと。

夜に巴馬が今やってることは手作り箸袋キャンペーンだ。

無地の箸袋に好きな絵や言葉を描いてもらうキャンペーンだ。

30枚描くと春巻一本進呈という恐ろしくコスパの悪いキャンペーンだ。

でも意外と描いてくれるお客様がいるのだ。

・・・一体、何をしているのだろう。

他のおしゃれなお店が木の上にお肉を格好良く並べている時に巴馬は箸袋とわ。

のんびりしすぎだ。さらに『炙りカルビキャンペーン』なんてことまで始めている。

炙りカルビと10回言えたら炙りカルビ進呈という変なキャンペーンだ。

​やりたいからやっている。ただそれだけだ。

更にお店のTVが40インチから52インチになるという地味な進化を遂げている。

TVを変えて二週間。未だにお客様には何も聞かれず誰も気づいていないという事態である。

しまいには気づいていないスタッフまでいたのである。

さすがに自分から言ってしまった。

『あの、、、TV大きくなったの気づいた?』

返事は

『ええーー。変わったんですか?』

まさかの返事であった。このまま前の40インチに戻そうかなと思ってしまった。

このまま誰にも聞かれない記録を更新し続けるのであろうか。

もはや、このまま誰にも気付かれずに年明けを迎えれば私の勝ちだと思っている。

こんな感じで2017は過ごしている。

結局、好きなことをのんびりとやっている。

と、そんな最中11月。

巴馬閉店説が巷で出回っている。

お客様に突然『マスター!お店閉めるって本当なの?』と突然聞かれたり、私の友人が飲み屋さんで飲んでいるときに

隣のテーブルでサラリーマン3人組が『あの地下の巴馬って店、潰れるらしいよ』『あぁ。わかるわかる』

という会話をしていたということ。

すごい。

どこから聞いたのだ。

 

未来人か。

その真実は2018年1月7日に私の口からしっかりとお話ししようと思う。

文字での伝達は解釈の違いが思いがけない噂を呼ぶ。

嵐が起きる。

私も龍圓二代目として色々と考えなきゃいけないこともあるのだ。

とりあえず1月7日まではのんびり生きようと思う。

​のんびりと山登りのように。

そして気付けば2018。

巴馬閉店説の真相を5周年祭で明かした。

完全なデマである。

あのサラリーマン3人の会話

『あの地下の巴馬って店、潰れるらしいよ』

『あぁ、わかるわかる』

と言っていた3人のサラリーマンを呼び出し、尋問したい。

何なら新潟修行時代のチーフをお呼びして2時間の説教をしてもらいたいくらいだ。

チーフの説教ネタ収集率はあのイチローの打率をも超えるのだ。5分もあればそいつらの心を粉々にしてくれるに違いない。

こんなにモチーフが頼もしく思ったことは後にも先にもこれが最後だろう。

『あぁ、わかるわかる。』と答えたサラリーマン。

何が分かるというのだ。何を聞いていたのだ。教えてくれ。

その会話をしていたサラリーマン3人にいま一番逢いたい。

挙手してくれ。お代はいらないからお店に来てくれ。

 

 

 

もう四月である。1月7日の五周年祭も無事に終え、6年目に突入の巴馬である。

年を突破したあたりでふと看板を見直す。

『中国酒ダイニング』ってなんなんだ。

創業時、中国酒を取り揃えるダイニングバーという意味でつけたネーミングであった。

それが今ではどうだろう。中国酒は取り揃えているし食事でも飲みでも使えるお店として存在はしているが

私のキャラクターとお店の雰囲気からして『中国酒ダイニング』という小綺麗な響きが全くマッチしていない

ということに5年を突破したあたりで気付いたのである。

そして2018年4月から中国酒ダイニングというものを辞めようと思ったのだ。

『中華おつまみとお酒とごはん 巴馬』  の誕生である。

お店のイメチェンとともに看板とロゴを変えたのである。

 

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多方面で活躍されているイラストレーターのハルペイさんという方にイラストの依頼をした。

インスタグラムから直接声をかけさせていただき、ご縁をいただいたのである。

私の似顔絵もそっくりである。

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お店の看板も見事に変わったのだ。

なんとものんびりしていて今の巴馬にも合っている。

そんなこんなで6月だ。ここ最近は大きな変化はないが風邪もひかずのんびりやっている。

 

そんな6月も終わり、ランチ営業が10月から週4回になった。

 

【週二回というエコ運転】と言っていたランチが週4になったのである。

何の影響か。

きっかけはもうちょっと仕事に時間を使っても大丈夫。と思ったのがきっかけだろうか

友達には『絶対に早死にするよ、働きすぎだよ。』と言われたのだが、自分としては

一切、そう思ってないのである。

確かに仕事に捧げる時間は長いが、早死にするという意味がわからなかった。

私は新潟市での修業時代が基準である。

さらに言えば、東京時代の深夜の松屋バイトからの朝から学校の方がハードであった。

 

なので週4くらい大したことでは無い。

 

そんなことより、ランチに働いてくれるスタッフがいることに感謝感謝である。

時給も1000円だ。暇でももらえる。昼の賄いも出る。おいしいはずだ。

ここでちょっと時給の話をしようと思う。

巴馬の夜のアルバイト。

少し前になるが、2015年の時点で時給が通常1000円  22時以降1250円であった。

そして日払いで即日払う&週1〜2回勤務というスタイルを取っていた。

当時、長岡駅前エリアでは飲食店で時給1000円を提示するお店は無かった。

なのでタウンワークに求人を出したら20人以上の申し込みで超絶殺到したのである。

タウンワークの担当してくださった方にも『時給1000円はここら辺では本当に無いですよ!応募が20人以上って聞いたこと無いですよ!』

…その結果がより良いスタッフをお店側が選べるのである。

選べるって凄いことなのである。

 

当時のツイッターで記憶に残っている投稿があった。

【ある保育園が保育士の求人を月給20万円で求人をかけたがほとんど応募がなかった。

そして求人担当の人と保育園の園長さんと相談した結果、月給23万円で求人を出したらその後、応募が殺到した】

 

この記事を見て私は思った。

 

【働く人にとってその部分一番大事。】

 

まさにこれである。

 

それと同時に個人的に思った部分。

 

よく、「求人出してるんだけど全然応募がなくて困ってる。」

と言っているお店が存在するけど、最低賃金に近いレベルの時給を提示して求人を出して、

それで「応募が全然無くて困ってる』と言うけど、働く方にその条件を提示して応募が来るのを待ってる方に問題がある。と思ってしまう。

私は言いたくなる。【時給あげたら普通に応募来ますよ。】

働く人の気持ちに寄り添ったらそうなるはずです。

経営者としてはスタッフに対して【うちで働かせてやってる】と言う方と【うちで働いてもらってる】

この二つに分かれると思う。

私は完全に【働いてもらってる】という考えだ。

スタッフいなければ営業はできないし、感謝しかない。

ウチのようなヘンテコなお店で働いていただけるスタッフには感謝以外何もないのだ。

 

なので時給も高めにしてもいい。なんとも思わない。

そして2018の秋や冬になって求人誌などを見ると気づくことがあった。

【時給1000円のお店が増えてる!】

 

その時思った。

私は2015年の時点で時給で3年先取りしていたのだと。

2018でやっと時給1000円がちらほら見えてきたということは2015年の時点で既に時給1000円というのはある意味、革命であった。

やっと時代が巴馬に追いついたのだ。 

そして私はふと思った。

 

追い付かれたら突き放すのみ!

さらに3年先を目指す!

 

 

そして巴馬の時給はスタッフへの昇級アップテストを経て時給が1200円になった。

22時以降はなんと1500円である。

在籍するスタッフは大体1200円になっている。

高校生も1200円である。

 

スタッフの笑顔もさらに増え、やる気も出て、出勤に対するモチベーションも高い。

お店にとっては有難いばかりだ。

 

さらに先日、スーパーに買い出しに行った時のこと。

求人のポスターが目に入った。

【土日は時給100円UP!】

 

ほほぅ!

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飲食店では曜日によって時給がUPという概念があまり無い。

 

これだ!

 

私はそれを見てさらに時給を金曜と土曜には100円あげようと考えている。

 

 

なぜ、そんなに時給を上げるのか。

 

 

答えは一つ。

 

 

そもそも高いと思っていない。

 

 

東京時代に牛丼の松屋で深夜のアルバイト時代。

私の時給はまさかの1575円だったのだ。20年前でその時給だったのだ。

 

それが私の基準になっている。

 

そう思うと今現在の22時以降の時給、1500円は松屋を抜いていないのだ。

 

松屋を抜くことがまずは私の目標である。

 

そこからさらに伝説を作っていこうと思っている。

 

今、働いているスタッフちゃんたちの心に【巴馬のバイトは時給が鬼だった】

とこの先何十年経った時にも思い出してもらえれば私は幸せだ。

 

私が松屋で1575円だった、ということを今でも覚えているくらいなのだから。

 

ふと、奥様と松屋の時給の話をした。

『でも20年前に時給1575円ておかしくない?絶対高すぎだって!』

 

確かに。今の東京の松屋の時給はそこまで高くない。

私の幻想だったのか。

色々考えた結果、どうやら1175円だったのかもしれない。

 

なにかの記憶がぶっ飛び、1575円と覚えてしまったようだ。

 

そうなったとしたらどうだろう。

すでに巴馬の時給は2015年の時点で抜いていたぽい。

 

 

まぁいい。すでに松屋さえも超えてしまったので次はナイトクラブが相手となるのか。

 

待ってろ。ナイトクラブ。

 

 

そして2018で巴馬は6周年を迎えた。

5周年パーティーでは25席の巴馬に55人ものお客様がパーティーに参加してくれた。

 

それもそのはず、【巴馬閉店説】の真相をマスターが直々に話すというメインイベントがあったからだ。

その5周年の人の入り乱れ具合は魑魅魍魎の地獄絵図のようであった。

そして2018年の6周年パーティー。

イベントを立ち上げたのだが、申し込みがまさかの6名だった。

少なすぎて吹いた。

 

それと同時に【巴馬最低】の称号を手に入れた気がした。

 

結果的に6周年は中止になった。

6人ではやる意味がねぇ!

ただの会合だ。テーブル1卓で井戸端会議みたいなものだ。

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7周年に持ち越しである。

そして2018年も平和に終わり、2019を迎えた。

 

雪が少ない。全然降らない。スノーダンプを買った意味がないほどに。

 

ランチは順調に週4で回している。

 

最近はランチのネタが決まらずに悩んでいる。

頭が禿げそうだ。

 

なぜ、そこまで悩むのか。

 

ここで箇条書きにしてみる

 

・日替わりで週4

・お客様はご近所で働く方々で常連様率9割

・巴馬は中華のお店

・価格が500〜700円なのでちょっと高い食材は使えない

 

ほぼ毎日来られる、とても有難いお客様が多く、もはや、メニューありきで営業している。

 

ここ最近ではもはや中華ではないメニューが台頭してきている。

 

・ビーフシチュー

・コロッケ

・名古屋風味噌カツ

・ビーフストロガノフ

・トンガベジ・チキンカレー(ザンビア料理)

 

もはや何でもアリになってきた。

 

そのおかげか、ビーフシチューは予約だけで21名。ビーフストロガノフは予約だけで18名と中華のランチメニューよりも需要があるのだ。

実際に予約されたお客様はどなたかな?と思い、当日を迎えるといつもの常連様であった。

もはや場所取り合戦である。

あるお客様がこう言った。『巴馬のランチのトリッキーな献立の時は予約必須です。絶対混むし!』

 

有難い。非常に有難い。

 

もはや中華ではないメニューの方が皆さん気になっちゃってるようである。

 

その後、普通に麻婆豆腐などのメニューをランチでやっても予約ゼロ。

 

もはや、自分のお店が目指す方向が分からなくなりそうだ。

 

バレンタインデーに餃子のランチをしたら12時台は2名しかお客様は来られなかった。

 

面白すぎて吹いてしまった。

 

クソ寒い2月に日替わりで冷やし中華をやったら6名も来てくださった。

当初、4名も来れば充分だ!と思っていたところ、6名も来てくださったので、想定の150%の成績である。

 

聞こえは良いが実際に6名ではランチは赤字である。

 

でも良いのだ。ランチに関しては、もともと儲けようとはこれっぽっちも思っていない。

 

巴馬のメインは夜営業である。17:00〜24:00までの夜営業が基本である。

それに加えて、ランチ営業は11:30〜14:00である。

14:00にランチを終え、買い出しに行って帰って来ればもう夕方であり、実際に休憩する時間なんて1分もない。

一般的に考えれば過酷すぎるであろう。

 

だが、私は違う。昼のランチ営業は自分にとって【楽しむ時間】と割り切っている。

 

・お客様の来店時間、人数などもすでに法則が出来上がっている

・仕込む量も一定

・変なメニューをやっても許される

・みんな優しい素敵なお客様ばかり

・スタッフが自分以上に働いてくださっている

 

こんな楽しい時間はなかなか無い。

中華なのに中華以外の自分がただただ作りたいメニューをやってるだけなのにお客様が来てくださる。

もはや、飲食店の最終形態かと思ってしまう。

 

このまま中華にこだわらず、ランチ営業は好きな料理を作って行こうと思う。

 

儲け儲けと考えず、自分が楽しめることこそが巴馬のランチ営業の未来だ。

赤字も上等!それも経験!

 

楽しもう。2019のランチは楽しむぞ。

 

そう決めた矢先、私は人生初の人間ドックに行く決意をした。

ランチをやってからというもの、睡眠不足が激しい。

まさに睡眠不足王である。

30代後半にして私は『王』の称号を手に入れた。

30代で王になるのはもはや、早熟かもしれない。

 

そして、この睡眠不足がとんでもない影響を生むかもしれない。

 

そんな予言が大変な結果を生み出してしまった。

 

人間ドック診断結果。D2判定が二つもあった。。

 

なんてことだ。自分の身体が死んでいた。

お医者さんの指示曰く、『睡眠不足は色んな疾患や病気の原因になります。丸山さんは今の生活リズムですと睡眠時間が足りないので、この生活を続けると病気のリスクが高くなりますので、見直した方が丸山さんの為です。』

突然死のリスクもありますか?と聞いたら『突然死も今は増えております。身体のバッテリーがいきなりダウンしてしまう感じですね。』と説明をいただき、私は真剣に考えた。

 

『そうだ。ランチ休業しよう。』

今の自分の身体の疲労はランチ営業がほとんどである。

お客様にちゃんと説明出来るのか不安になった。

やる気はあっても身体が死にかけている(らしい)。

死んだら夜の営業も終わってしまう。

私の人生バッドエンドである。

いやだ。それだけは嫌だ。ハッピーエンドで終わらせてくれ。

 

という事で、ランチ営業を休止することにした。

 

そして。。

 

ランチ営業を休止してから1ヶ月が経った。

 

睡眠は取りまくっている。1日7時間は取れている。

身体が元気だ。軽い。眼精疲労もない。

 

しまいにはお客様に言われた。『マスター、顔色いいですね。前はヤバかったですよ。良い睡眠が取れてないなーって顔色でしたよ。』

 

やはり、お客様にはそう見えるらしい。

 

とりあえず今は身体を大事にコンディションを整えて生きています。

 

そして巴馬はお店のYouTubeチャンネルを開設した。

クッキング動画である。

とはいえ、チャンネルのコンセプトが『半分雑談・半分調理』である。

 

ほとんど雑談な気がするのだが週一回のペースで更新している。

 

あくまでも趣味。

高校を卒業してからマスコミの専門学校に行き、編集のイロハを学んだ。

今の仕事である調理の仕事と上手く調和が取れているようである。

非常に楽しい。

 

ランチを休止してからというもの、SNSも一切UPせずに地味な営業をしてきた。

 

すると、どこからか 『マスター死亡説』が囁かれた。

人間ドックの後に大きな病が見つかって死亡。という噂らしい。

では聞きたい。YouTubeに出ているマスターは誰なんだ。幽霊か。

 

そんなこんなで2020年を迎えた。2020という文字に未来感を感じる。

私も今年で40歳。そこに未来感は感じない。

 

平凡に過ごしていた矢先、世界でコロナウイルスが蔓延した。

コロナ?なんだそれは。と思っていたがこれこそが一生忘れることのできない思い出になる。

 

3月の売り上げ。前年比でちょっと落ちた。

4月の売り上げ。前年比でめっちゃ落ちた。

5月の売り上げ。前年比で最強に落ちた。最強ではない。最凶だ。最狂かもしれん。狂ってた。

4月は店内の営業がほぼ無しであった。

反してテイクアウトが溢れていた。

その間はあれだけ死と隣り合わせに立っていたランチ営業を復活した。死んでもいいと思っていたのだろう。

そして夜は20時閉店。テイクアウトのみで営業していた。

20時で帰れるということに小さな幸せを感じていた。

家に帰ってバイオハザードばかりやっていた。ゲーマーになっていた。(もともとゲーマーです)

5月。テイクアウトが激減りした。緊急事態宣言が解除され、外出する人が増えたのである。

しかし。こない。お客様がこない。なんてことだ。

父の店、龍圓はお客様が戻ってきたらしく私に教えてくれた。

【巴馬は戻ってきませんよ。これからもずっと。永遠に。】

開き直りの精神が芽生えていた。

あまり気にしなくなっていた。

変に期待するのも疲れる。

巴馬がオープンした時のお客様ゼロ続きの日々を経験した身としては、来るか来ないかはお客様の気持ち。自分の実力不足もあるし、来てくださったお客様に誠心誠意のおもてなしをするだけだ。

巴馬は繁盛店ではない。

その気持ちが根深くあるので、お客様が来ないくらいでガタガタ言うことではない。

5月はテイクアウトが減る。それに合わせて店内飲食のお客様が増えれば良いと思っていたが全く来ない。

テイクアウトも減る。店内は誰も来ない。

つまりドン底である。無である。

底辺に堕ちた。

 

素晴らしい。

ここから見える景色は貴重だ。

 

感謝の気持ちが倍増している。

ご来店くださったお客様のお帰りの際に勝手に頭を下げていた。いつも下げてはいたが知らないうちに深々と下げていた。

私のDNAがそうさせていた。

良い経験だ。

5月はとにかく底辺を極めた。

その道を極めたものは強い。

私は飲食店の底辺を極めたのだ。

 

そして6月。

地方局NSTのスマイルスタジアムのコーナーに出るお話が来た。

グルメリレーのコーナーである。

それがまさかの父の店からのパスである。

『なんたる出来レース感』

 

親子リレーである。

 

とにもかくにも、ありがたい話。

『噂の店 巴馬』はこの8年の営業でテレビに出たのは皆無である。

オープン直後にケーブルテレビに出させていただいただけである。

 

地元のタウン誌のNEW Open!のコーナーにも掲載されなかった店である。

NEWオープンすら気付かれないお店であるのだ。

 

NSTさんの撮影も終わり、放送日は6/20(土)18:00〜

忙しい土曜日である。18:00にはほぼ全席が予約でいっぱいであった。

 

スタッフも『絶対見ましょうよ!』となっていたが、私は『絶対イヤだ!公開処刑になる!』

と見ることは許さなかった。

 

スタッフが意地になっていたので、私も意地になって、18時前にチャンネルを他局に変え、さらにリモコンを隠した。

さらに変貌を遂げて65インチになった巴馬のテレビは本体のチャンネルボタンが無いのである。

リモコンがなくなったら何もできないのである。

後日、奥さんから送られてきた録画ムービーで放送はスタッフと確認した。

そこには特に緊張もしていないいつものマスターが映っていた。その放送直後からか、お店の電話が鳴り続けた。

『これから3名で行きたいんですけど空いていますか?』

『これから二人で行きたいんですけど大丈夫ですか?』

『子供入れて5人でこれから行きたいんですけど。』

 

私はその電話から『スマイルスタジアム見ましたオーラ』を感じ取った。

しかし、当日は既にスマイルスタジアム関係なくご予約でいっぱいで、お席がご用意出来なかったのだ。

申し訳なく思う。

そして、翌日はまさかの定休日である。

土曜日に放送、翌日曜日はテレビを観た方がご来店。という理想型とも言える流れに逆らって巴馬は日曜日定休である。

ひどい店だ。 ありえないお店だ。宣伝効果を帳消しにする営業スタイル。

そして月曜日からも予約が来・・・全く来なかった。

 

そして8月。夏を迎えた。 

40歳になった。ひぃぃぃ。ドン引きだ。

DNAレベルでドン引きだ。

周りの年上。人生の先輩方が皆、口を揃えて言っていた。

『20代や30代よりも40代が一番たのしい。』

本当なのか。私は絶対にそんなことはないと思っている。

もはや40代は人生未経験のことも減り、新しい刺激もなく、自分がやりたいことだけを出来るように絞って絞っていく感じなのかな。と思っている。

私はのんびりと生きたいが刺激も欲しい。

30代の方が絶対にたのしいと思っている。

40代で加齢に伴って病気などになる刺激はいらない。

周りの先輩方には申し訳ないが、私は30代がたのしかった。20代は面白かったけど無駄も多かった。

そして2020、秋冬。

困ったことに思い出が何も無い。

40歳に突入したあたりで髪が薄くなった。

前頭部にエアーを感じるようになった。地肌に指が触れる感じがより一層クリアになってきた。

髪の毛という障壁が減っている。

このままではM字ハゲまっしぐらだ。

自分は天パで23歳の時に修行先での精神的苦痛もあったので白髪があったが、当時担当していた美容師さんに『丸山さんはハゲないですね〜。大丈夫ですよ!』と言われた事を思い出した。

 

全然違うじゃねぇか!明らかに空気感が増してるじゃねぇか!

その時の美容師さんの頭をバリカンで刈ってやりたい。

新潟市の修業時代のチーフを呼んでやろうか!安定の説教ネタ収集率を目の前で見てみたい。

チーフにバリカンを持たせたら鬼に金棒である。もう誰も勝てない。

 

とはいえ、まだ髪の毛があるだけ幸せという想いを大切にしたいと思う。

頭に海苔でも貼っておこうかと思う。

天パなので韓国海苔あたりが馴染みが良いかもしれない。

 

いざとなったら海苔を剥がして食べれば良いので緊急時にはもってこいだ。

 

そして2022年になった。相変わらずコロナ禍は続いている。

いつまで続くのだ。

昨年末の忘年会も中止、新年会も中止というのが続いてる。

ひまぴょんである。

そんなタイミングで巴馬はスマホオーダーにしようと検討中である。

今まで紙伝票で対応していたが、仕事の効率が悪いと思うことが増えてきた。

アナログ満載である。まだブラウン管のTVを使っているようだ。

まだ検討中の段階だがこれで少しでも効率が良くなればと思っている。

 

 

2022年5月。スマホオーダーを取り入れた。やはり予想通りすごく仕事の効率が上がっている。

とても楽になった。

今までスタッフの言った注文を暗記王の如く自分の頭をフル活用して記憶していたのだが、その必要も無くなった。

画面を見れば一目瞭然。お客さまにも好評のようだ。

もう紙伝票に戻れない。今までのは何だったのだろうか。

常に前進あるのみで営業しているが、一つ問題が発生した。

大きな問題が。

私自身が脳を駆使しなくなった。

脳が楽をしている。今までは脳の細胞がぶっ壊れるくらいに暗記王になっていたが、今は暗記ということが不要になった。

その弊害が身に降りかかるのではないかと戦々恐々している。

 

突然ボケるんじゃないかと毎日お布団の中で震えている。

毎日お風呂の中で湯船に浸かりながら円周率を数えている。

夜中に風呂場から数字を言っているのは側から見たら怖いかもしれない。


風呂場の窓を開けているので、近所の人に漏れていたら「丸山さん家から夜中に黒魔術のような呪文みたいなやつが延々と聞こえるんだけど・・」と噂になりそうだ。

 

スマホオーダーにする弊害でこんなことが起きてしまう可能性が高い。

 

スマホオーダーを使ってみてちょっと様子をみよう。

 

2022年、年末。スマホオーダーに変えて7ヶ月が過ぎた。42を超えた私の脳にもなんとか慣れることに成功し、お客様も使いこなしてくださっている。

ただし、一定数使わない人も存在する。そういう方々には従来通りの注文方法で口頭で聞いている。

なんとかなっているようだ。

2022年の通常営業最終日に、奇跡は起きた。

オープン時間を16時に変更。そして席は2時間半制度。そして効率重視のスマホオーダー。

この3本の矢が上手く噛み合い、2022年12/30は、巴馬創業10年で最高売上を達成した。

10年目の素晴らしい締めくくりである。

これまでは2018年の12/30の売上が過去最高であり、絶対に越えられないものだと思っていた。

その売上を30000円も上回る最高の売上を達成したのである。

そして大晦日のオードブル。この売上がまた12/30の売上を抜く売上を出した。

改めて思った。

テイクアウトって凄いんだな。と

 

2023年。11年目。コロナも5類になり身の回りの動きも変わってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元気の源はヤクルトだ。

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